馬鹿は風邪を引かない、という論説を俺はいつまでも否定し続ける。

秋が来た。

ようやく、秋が来た。今年の夏は本当に、いい加減にしてほしいと何度も願った。朝起きてエアコンが効いていないことに気付かされた瞬間の絶望と、窓を開けて外の空気を吸い込んだ瞬間の不快感と言ったらなかった。朝の風を感じて受ける不快さというものは、労働の義務を日本国憲法から消すほどの厭世を抱かせるレベルの悪である。

この夏ほど死にたいと思うことはなかったと思う。俺は人身事故でこの世を去る人間に対しては憐れみしか感じない。俺の真横で「ふざけんなよ」と言う人間が居れば、多分俺はその彼と友だちでいることを続けるのは難しいと感じるだろう。自死の理由くらいは察してやりたいし、酩酊してホームから線路に落ちた場合も、明日は我が身、としか感じない。

俺は、今年の夏に気持ちを折られ、精神的にかなり殺られた。6月からしっかりと暑かったせいで、7月が可なりの長さを感じたものである。北海道に帰ったときには本当に救われたと思ったものだよ。めっちゃ雨降り続けていたけど。そんなことよりも気温の落ち着きが、俺の気持ちも落ち着かせていた。

その時期がやっときたのだ。ここ、東京にも。

求めていた時期がやっと、眼前に現れた喜びを胸いっぱいに吸い込み、朝の冷たい空気が自分のたるんだ気持ちをしっかりと引き締めてくれる。カラッとした空気が喉を通るたびに、俺は幸せな気持ちで朝の音楽をチョイスすることができる。

 

そう。思っていた。

 

はずだった。

 

俺は風邪を引いたのである。

 

 

 

季節の変わり目は風邪を引きやすい、というのはもはや人間の格言として覚えておくべきもので、去る土曜まで短パンで過ごせたのにもかかわらず、今の俺はジャケットなんか羽織っちゃうくらいの寒さを感じざるを得ない。

そんな気温の中、月曜から猛烈な筋肉の強張りを感じ、俺はただ単に疲れ、そして肩こりだと吐き捨てて会社に行きつつも、夕方ころから喉の痛みを感じ始めた。

ようやく頭痛が収まってきた。俺は書くしかない。

月曜夜も不安を抱えながら家でパスタを作り、ネギをたくさん入れたパスタを食べつつ肩ロースのチャーシューを仕込んだ。起きた火曜朝はまぁ体調は大丈夫かな、とか思いつつ喉の痛みはしっかりと感じていた。ビタミンが足りていないことはわかったので、果物を摂取して家を出た。

仕事を始めればそんなこと言っていられないわけだが、昼寝をして、昼からの仕事を多少片付けて外出をキメ、帰社直前で腹具合がおかしくなったタイミングで完全に気づいた。この体調不良…風邪だ。

寒さのせいではない。己の不摂生と精神のイカれ具合がなすものである。

本日である水曜。俺は朝起きてトイレに籠城。どうにかなるだろうと思って一旦布団に戻ったが、その後は起きることもままならずに欠勤の報告。会社からは「有給にしますか欠勤にしますか」なんて連絡が来ていてかなり萎えた。そういうの、あとからにしてくれないかな、というのは働いている側の意見だ。しかも死んでるときに仕事振るなよ…そりゃミスも起こすよ。

と、今になっては書けることだ。

心底疲れた。休みの日なのに心身ともに疲れてタイピングを始めてしまう苦しみは何故、起こるのだろう。

心底疲れた。どうも魂の居所は家にあるらしい。家にいるときすら気持ちが折られていくのは溜まったもんじゃない。

 

 

しかしながら悪いのは己の行いだ。

俺は馬鹿は風邪を引かないという理論をいつも思い出す。

この理論には2つの視点がある。

 

 

「馬鹿は本当に風邪を引かない」

というのと

「馬鹿は風邪を引いても気づかない」

 

馬鹿であれば本当に風邪を引く余地もなく遊び続けることのできる体力馬鹿、という揶揄が前者。

 

馬鹿は風邪を引いてもその異変に気づかず、なんかおかしいなー、あれ?風邪はやってます?大変ですね、とか言って素知らぬ顔をしているのが後者だ。

 

 

あなたはどっち?

 

 

 

私?

 

私ですか??

 

 

私は

「体調管理ができないから馬鹿」

 

この3つ目の視点が当てはまる。

 

馬鹿は風邪を引かない、という前提を根底から覆す。論理もへったくれもない。

ちなみに看病してくれる人もいないロンリーな男だ。

 

体調管理ができない。これこそ本物の馬鹿であり、馬鹿は風邪を引かないなどという考え方は単純に「馬鹿」=「元気な人」を指す状況であり、

「馬鹿」=「本物のうつけ者」という前提を持てば馬鹿は風邪を引きやすいという結論を導き出すことができるのである。論理学については己のもっとも不得意な分野だったので割愛しておく。

 

そんなわけで体調についても戻ってきた、と、今の段階では思っている。

明日になってみればただただ会社に行きたくない病も発病するかもしれないが、俺がどうにかしなければ回らない仕事もある。そういうところの責任感、いい加減捨てて過ごしたいなんて思う気持ちが相変わらず心のうちにある。

 

少なくとも、朝窓を開けて暑苦しい空気さえ感じなければいいのだ。それだけで心は救われる。

 

もうすぐ寒い季節が来ると思うと…それもまた辛いものだ。

 

 

ちなみに風邪をひきやすいから馬鹿、という論理は導き出せないので誤解せぬように。

 

寒いのも暑いのも嫌だし、そもそも暑いのも寒いのも関係ねえじゃん。とか言いながら俺は常夏のマリネラ王国にでも住むしかないのではないかと思った。年がら年中ポカポカ陽気で頭の中も空っぽにしつつクックロビン音頭を踊って生きていたいと思う。完。

 

サーカス団、お台場で俺を童心に帰らせる -夏の魔物2018に想いを寄せて-

魔法が解けることはなく、虚脱感に苛まれる日々だ。

 

 

 

というかむしろ魔術か。

魔物にかけられた黒魔術は解けぬまま、来る日も来る日もDMBQというワードでツイッターを検索しては、昔DMBQに恋い焦がれていた連中の阿鼻叫喚を見てほくそ笑む夜を過ごしている。

主題ではないが、DMBQのライブは本当にすごかった。青春の気持ち、19の夏に感じたあのサイケデリックバンドの狂乱ではなかったが、静かに狂いつつ音の壁で殴りつけてくる新しいDMBQの在り方。はっきり言おう、大賛成だ。

 

極めつけはROVOだった。最初っから聴き慣れた曲をフルスロットルでぶっ飛ばし踊らせてくる様は、神の余裕とそのえげつなさを感じさせた。何度か山本さんがキマる瞬間を見たその刹那、俺は踊るのをやめて世界を並行に見ていたと思う。

 

 

そんなわけで、夏の魔物2018。見ていたこっちとしては「フェスとしてのクオリティ云々よりも楽しかった」と思うばかりであった。

 

あのフェス、去年は会場へのアクセス以外は最高だった。今年はステージとステージの距離がめちゃくちゃ近かったので音がかぶりまくるし、入り口にてドリンクチケットで金をとったにも関わらず、オフィシャルのドリンクを欠品させるくらいのクソ運営。挙句の果てにはぬるいビールを飲んだ直後の向井秀徳に「このフェスと同じくらい、ぬるい」と言われるくらいなのに、客をしっかりと喜ばせるという、こういうところだけは本当にすごいなと思うのだ。

 

 

語るよしもないことを語る。チラシの裏にあるのが人の思い出だとすれば、俺はそれを抱きしめて生きていきたい。

 

 

一つの想い出を語ろう。

 

 

どうしようもない思春期こじらせ真っ只中。

激しい音楽・本場海外のロックンロールこそ至高であり、日本の音楽なんかクソだと吐き捨ててメタルばかり聴いていた俺がそれに出会ったのは16の春くらいだったと思う。

あの頃買ったCDといえば、レッド・ツェッペリンのライブ盤の新作とメタリカの新譜だった気がする。そんなお年頃だが、17を過ぎた頃には俺はロキノン系(『反逆の音楽』みたいな号を読んでからレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン)にハマり、音楽のベクトルが変わりつつあった。あの頃から、というか俺は一貫してずっと左っぽい思想を抱きしめて生きている。

そんな時期のちょっと手前に、筋肉少女帯と出会った。

 

幼少期の俺にとって大槻ケンヂは「世界ふしぎ発見!」にたまに出るお兄さんだった。

 

 

そんなおじさんのエッセーを何かのタイミングで読み、グミチョコレートパインの小説を初めて手に取った頃に俺はTSUTAYAでベスト盤を借りた。『筋少の大車輪』である。入っていた曲はどれも刺激的で、どのアーティストの歌詞からも感じられなかったふざけ具合に痺れた。

ふざけてなどいなかったのかもしれないが、とにかくふざけていた。多感なガキ(だったと思う)をたぶらかすには十分な破壊力を持ってして俺の脳髄をどろろにしていった。ユーモアとはなんぞや、というところに関してはもはや俺にとってオーケンは神様のようなものであり、多分一生かかっても近づけない存在なんだということは、しっかりと自覚している。

多感なクソガキの自分に、どうしようもないほど悪影響を与えてくれたバンドが筋肉少女帯だった。

 

 

聴き始めた当時、筋肉少女帯はメンバーがバラバラであり、活動をしていなかった。

すでにこの世には無きものとなっているバンドの音楽を聴くことなど、日常茶飯事すぎてなんとも思わなかった。いろいろな新しいものを吸収しようと思っていた頃に、俺は地元の美容室に通い始めた。店主は俺に大量のCDを渡し、<洗脳>とも呼べるレベルの調教を施してくれた。そう、嬉々として。真っ先に貸してくれたのはナゴム時代の筋少空手バカボンのベスト。あとはその頃聴き始めたブランキージェットシティの、フジロックでの最後のライブ(Saturday Nightのギター交換が最高にかっこいいアレ)を録画したVHSだった。

後にデッドエンドとかガスタンクとか、そっち方面の音も聴かされてはウットリしていた時期もあった。当然ながら、スターリンINUの影響も受けていったのもこの時期だ。なんせオーケンのエッセイにも名前がよく出てきたから。その後、トーキング・ヘッズの“Remain In Light”にも出会ってしまい、俺の音楽観は更に狂っていく。ハードな音がどうとか、まるっきりどうでもよくなり、踊ることの楽しみを覚えていった。

 

筋肉少女帯。俺は、いつしか憧れの音楽として、いつか、再結成することもなく終わってしまうには悲しすぎるという想いを抱き始めた。

 

正直な話、筋少も良かったが、あの頃の俺、いや、今でも空手バカボンのベストが最高に好きである。こういうところをもってして人生が屈折していると言われる所以かもしれないが、ああいうキッチュサウンドが最高だと未だに思っている。

 

16、17で遅い音楽教育を受けた俺も、気づけば筋肉少女帯にがっつりハマり、空手バカボンをやっていた頃に近い『仏陀L』こそが最高のアルバムだと思い込んでいった。やっぱ次点は"Sister Strawberry"である。あの頃だからな。

 

時は流れ00年代の終わり、筋肉少女帯は再び活動を始めていた。

 

が、沖縄に住んでいた俺にとっては見る機会もなく、旅行の前にローチケを見ては「あ、筋少のライブ…って売り切れかよ!」なんてことがよくあったわけである。おそらく2008年頃か。筋少下北沢シェルターでのブッチャーズのライブを天秤にかけて検討するつもりだったが、当然筋少は売り切れていたわけだ。

 

季節は流れ

初めて筋肉少女帯のライブを見たのは、2016年のライジングサンロックフェス。

 

あの時…俺は完全に不完全燃焼だった。思い返して見るとワクワクはあれどキーボードねえじゃん、と、ステージを見てがっかりしたのを覚えている。「イワンのばか」と「じーさんはいい塩梅」だけはもう、こればかりはしびれてどうしようもないくらいにブチ上がったわけだったが、終わってみれば寂しさもあったと思っている。

 

俺が聴きたい曲はやはり、三柴江戸蔵のキーボードが必須だったのだ。

「サンフランシスコ」が生で聴けなければ全く意味がないと思っていたほどだった。

あのけたたましいイントロが聴けなければ、あの人の手にかかったメロディが聴けなければ、俺の気持ちは昇華できなかったのである。

 

ちなみに2008年のくるりにはその人、三柴理がいた。そのライブは、見た。「ばらの花」のピアノなんかは最高だった記憶がある。

 

 

 

俺は一昨日前、全く酒に酔うこともなかった。この夏の魔物でステージセットを見たときにハッとし、すぐ、ツイッターで「筋肉少女帯 エディ」と検索していた。

前日のライブには三柴江戸蔵がいたらしい。

 

 

俺は気持ちの昂りを抑えられぬまま、一曲目から鳴り響くキーボードのイントロで泣いた。

 

こんなに近い日本の地でお逢いするなんて

本当に嬉しい。

目の前のサーカス団は俺を一人ドキドキさせて「まだ僕はこんなところで」「きっとうまくいくわ」なんて

まだ綱渡りを続けさせようとしたのだ。

 

 

俺はその勇気を、日本印度化計画でも大釈迦でも踊るダメ人間でもなく、「高木ブー伝説」にて昇華したのだ。

 

吉祥寺に帰ってきたのは21時すぎのことだった。

目の前にいたのはサリーの女…

ヨガのポーズで俺を止めた。俺は、唐揚げ屋に入って唐揚げはなんて硬いんだー!!!!と俺は聖者として最期の言葉を叫んで悶絶した。

 

 

数十分前に目黒二郎臨休の憂き目に会い、まるで無力な俺はまるでまるで高木ブーのようじゃないか!!と叫んだことも忘れて。

 

 

夏の魔物のいたずらは、俺を本当に、童心に帰した。

 

 

この想いが末永く続くように、と、漠然と夢想しながら

いつかオーケン、エディと出会ってみたいという17の頃の気持ちを抱きしめ続けることにしたのだった。

 

死んじまつた悲しみに―さくらももこに捧ぐ―

人の生死だけがニュースになる。

 

死生観というものがいかに単純で、いかに重要かを思い知らされる出来事が多々、起こる。

今年は地震やら大雨やら酷暑やらで、脳みそがとろけきったところで大きなダメージを感じることが多い。

 

そんな中でも、訃報がニュースを占める割合が増えているように思うのは、自分にとって大事な者が次々にいなくなっているからだ。

そう、もう10年くらいそんな想いにやられ続けているかもしれない。橋本真也に始まり、アベフトシ三沢光晴、マイケルジャクソン、レイハラカミ、吉村秀樹、プリンス、そして最近では、アレサ・フランクリンもそう。俺が感化されて来た人々がいなくなりすぎて、その度に自分のスピリチュアルな部分、QOLが揺さぶられている。

出会いあれば別れありというが、直接会って話をしたこともない人々だ。自分にとってある意味神格化してしまうことは、不可避だ。

そんな中でも悲しみにくれたのが、つい先日の話。

 

 

さくらももこ死去のニュースの際、俺は田舎に逃げていた。平日の月曜のことだった。

 

ここ最近は、仕事に行きたくないと思うことが多い。俺は、仕事が長続きしない。単に飽き性だとか、辛さに対する耐性が低いとも言えてしまうとは、確かに思っている。1年半以上続いた仕事なんて、いままで1つしかない。やめることを前提に働いていたから、あのときは本当に開放されたと感じたし、あのままあの土地にいれば多分、腐りきって理解されずに死んで行った気がする。もしかしたら、北の端の田舎に逃げていたかもしれない。

どうにも「逃げ場」がある状況がないと心が死んでしまう。自由に逃げ惑う時間がないと、気持ちが参ってしまう。よほど、拘束されるという事に関する抵抗感が強いと見た。

 

初めて、レンタカーに乗って運転した東京の街。

札幌の都心なみの恐ろしさというほどではなかった。そもそもほとんど高速道路の運転だったわけだから、ごみごみした都心での殺人的な交通量に悩まされることもなかった。

それでもあの首都高のわけのわからなさ。あればかりはナビが無きゃどうしようもねえと思い知らされた。あの道をそらで走り通すまでに、俺はどれくらいの時間がかかるのだろう。それができるようになった頃は、俺がなんの不自由もなく生活し始める頃だと思う。その日が来るのか来ないのかは、全く想像がつかない。

 

アクアラインをぶっ飛ばした。どれくらい海なんだろう、と思っていたが、意外とトンネルが長く、ああ、まだ海見えねえなぁなんて言いながら100キロ以上で飛ばしていた。みんなよくスピード出すな、とか思っていたが、北海道民には言われたくねえと確かに思う。トンネルを抜け、海が見えた瞬間に飛んだ疲れがもたらしたものは、とても清々しい気分だった。はるか南の島の海中道路のことも、1ミリくらい思い出してみた。

 

完全に雨から逃げ切り、降りたこともない木更津のインターでスピードを落とした。

着いた田舎は、小さなリゾートだ。普段鬱屈としながら働いている若者たちがはしゃぎ倒していた。良いなぁ、来てよかった、と心から感じ取る。朝から菓子パン1個で済ませていた俺の眼の前に広がる光景は、バーベキューの準備なんか知ったことかと水鉄砲合戦をし始めた奴らの微笑みだった。

可愛らしい奴らだ、と呟いた俺は迷わず室内で肉を焼いて食った。こっそりではなく、室内にいた連中も巻き込んで。

 

大人の余裕、なんていうものでもなく、好き勝手やっている、と思われてみても、ああするしかなかった。疲れ切っていた。心がだ。はしゃぐことよりも、飯を食うことよりも、煙にまみれて落ち着きたかった。

若い連中と俺の発散方法は、ひたすら違っていたと今になってわかる。ゆっくりできる、という安堵。落ち着いてしまった、という喪失感に苛まれて、気持ちはしっかりと落ちていった。何しろ、運転のために酒が飲めなかったという事実もある。ここ最近はコミュニケーションのために酒を飲む、ビールを嗜む、つもりだったのにもかかわらず、ブッ飛んだ頭を迎え入れるために飲んでしまうことが多い。

辛さがあった。飲まないでむしろ助かる、という思いに苛まれるのが本当に、辛い。俺の価値観は結局の所、「酒なんか飲まなくても生きていける」なのにもかかわらず、最近では酒をしっかりと飲む機会が多い。

 

やめられないことが多いのに、これ以上やめられないことが増えては困るのだ。そう思う気持ちは、今でも変わらない。

 

そんなことを考えているうちに、iPhoneの通知は残酷なまでに俺の感性と記憶を叩き起こした。

 

俺は、田舎のリゾートが喧騒に変わっていくのを眺めながらも、自分の気持ちを忘れることができなかった。ツイッターを開けば皆、故人を偲ぶ想いを認め続けていた。俺の気持ちは明後日の方を向きつつ、疲れも感じつつ、どんどんと冷静さと動揺が入り混じった感情をかき混ぜながら、その時間がすぎるのを待っていた。

最後の夏だ、といって燃やした火薬の放つ光と、光る遠くの空が俺の想い出を形成していく。夜道のドライブは、気持ちよさもあった。早く帰りたいという気持ちも混じった。そうであっても、俺たちはさらにそれの疲れを癒そうと、酒を飲もうと言う話になり、集まるべき場所に向かっていた。当然、俺の手にはビヤ缶が6本もあった。買う必要もなかったのに、6本も買っていた。

 

家に帰ってきたのは午前3時前だ。

眠さと疲れが俺をベッドに傾けていたことを今でもしっかりと覚えている。

頭だけは洗わなきゃ。そう思って、バスタブに半身を乗り出し、シャンプーを手にとって頭を引っ掻き回した。顔を洗っている最中に酔いが冷めた。俺は、8,9時間前にふと感じ取ったエモーションを温め直そうとしてYouTubeを開いた。

 

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歯ブラシをくわえたまま立ち尽くした。どんどん、自分の身体が重くなることを無視できなかった。

 

想い入れがあるものを聴いて、物事を調べているうちにぶちあたる作曲:小山田圭吾の事実と、自分が受けてきた影響を照らし合わせていった。

 

 

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現実と、突きつける事実が俺を嬉しく震わせると同時に、なぜ今まで気づかなかったのかと、自分にがっかりしていった。

 

 

 

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極めつけはこれだった。

俺は、また一つ、自分の想い出と、突きつけられる現実に後悔の念を抱きしめて眠ろうとした。

どう聴いても聴き慣れたナイアガラサウンドは、抱きしめても潰れていくようなことはなかったのである。

 

うちの親の刷り込みは成功だったのだと。なおさら強く思い知らされたのであった。

 

 

 

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喪失感、郷愁、サイケデリズムに抱かれて、涙が枯れるほど目を泣き腫らし、俺は翌朝、悪夢を見た。

 

覚めることのない感情が、一つ生まれた夜だった。

雨を待っていた

酷い暑さと書いて酷暑

 

身体を蝕み、いたずらにそのコンディションを悪化させていっている状況があまりにも辛い。

こんな暑さ、体験したことがない。

誰しもがそう思っているが、俺は、周りの人が浮かべている涼しい表情が耐えられない。他人の顔がすべて悪魔の微笑みとなって脳に入っている。この世の中は妬み、嫉みにあふれていて、他者の人生を阻害するような意識がインターネットを通じて飛び交っている状況である。俺は、そう認識している。

暑さによって俺の頭はどんどん冴え渡り、ヘイト感受装置としての機能を遺憾なく発揮している。

冴えているという表現が正しいのかどうかはわからない。自分自身に自信がない、という状況を、自覚し始めてきたのが本当に運の尽きだと思っている。

暑さを極めていく夏に対し、心の冬は厳しい寒さを感じ続けている。思えば、着る服を何も持ち合わせていない。調達してきたものが、全て破れてしまった。裸の人生を送っている。ほころびが、また同じところからほころび、俺の服は何一つ残っていない。

こんなに暑い夏を経験したことがない。

とは思っていても、この暑さはまた来年もやってくるのだ。

そのたびに俺は後悔の言葉を書き溜めて仕舞うのだろう。

アスファルトが湿っているのを見て、俺はこれもまた繰り返しだとしか思えない。

俺は着る服を失っていく。

着る服を用意するために、頭を冷やして新しいものを得るためにこの場所に立ったはずなのに、俺、まだ裸である。

失うものはなにもない、って言う人いるけど、俺は自尊心と羞恥心を身にまとって未だに裸で、戦うためのエネルギーを持っていないのかもしれない。

いたずらにスキルだけ鍛えていったし、結局のところ人頼みの人生を送っていることを恥じているにもかかわらず、なんの一歩も踏み出せていないこの心の苦しさはいったい、どうしていつまでも俺の足を叩き続けているんだろうか。

 

トラウマが多すぎる。

 

19歳だか20歳のときだ。北海道に帰った夏、あの夏もつらい時期だったと記憶している。日差しの強い島で引きこもり、音楽に明け暮れ、どうにも理解して俺を利用してくれる人がいないと思っていた島が辛かった。碁盤の目のアスファルトが、昼間の気温を夜に向けて貯め込む時期に北海道に帰った。

あのままもう戻りたくない、そう思っていた瞬間もあったような気がする。

真面目すぎることが欠点だ。真面目過ぎて、人の言うことを真に受けすぎて、身動きが取れなくなる性格を持つ俺は、ある夜、とある定食屋の店主に手を握られた。

何事かと思った。酔狂な人なのかもしれないと思う間もなく、その人はただ俺の手相を見て、大物になるとつぶやいた。

なんの根拠に、と、俺の心がつぶやいたとも記憶している。

ただただ俺はその、大物になる、とか、その根拠のない言葉が怖すぎた。お前に俺の人生の何がわかるんだと。いたずらにそのようなことを俺にいうべきではない。少なくとも俺には。

そう思っていたタイミングで、横にいた友人、もはや、元友人と表現しておくべきかもしれない。

彼は、俺のいないところで、俺の手相を見たオヤジの言葉を聞いたらしい。「長生きしない」と。

 

不安になる時、いつも思い出す。悔しくて涙が出る。

結局のところ何も成し遂げていないのに、どうしてこういう結末が導き出そうとしてしまうのだろう。

 

他人に心を覗かれるのが不安すぎて、俺は俺という人間のアイデンティティーを表現しているんじゃないか。

 

そう思うのが、会社で執り行われたとある検査だ。

 

人の強みと志向を割り出す検査だが、俺はウィーク・ポイントをさらけ出すような気持ちにさらされた。

心を覗かれるのが本当に怖かったのだ。

 

人々は気持ちをさらさない。

俺も気持ちをさらさない。

 

探り合うこともしない。

 

その探り合いが、本当に嫌なのだ。

 

一人で生きていたいとは思わない。

でも、共感性を持ち合わせない人とやっていけない。

 

 

どうしてここまで弱い心を育てねばならなかったのだろうか。

 

 

 

自分の置かれている状況や、物事をはっきりさせるにはちょうどいい季節なのかもしれない。またこの季節がやってきたと思えばいいのかもしれない。

しかし。俺は安らぎの人生を送っている時期がバカすぎて、こう冷静になる時期がつらすぎる。

夏。端的に言って苦しみの季節。

 

この寝苦しい夜に通り過ぎた雨雲が落としていった雨粒は、あっという間に気化熱と引き換えに消えていった。

 

雨を待っていたはずだったが、俺の期待した雨ではなかったのだろうか。

希望を写す水たまりに足を突っ込むには、まだ早い夜なんだろう。

水たまりに希望を感じては裏切られて、その繰り返しだったのだから。今更、性急な状況変化なんか求めちゃいないのだ。

 

長い冬があけていく。

俺はそれを夢見るために、眠りにつく。

眠れるかどうかわからないまま、布団に入る。

胸いっぱいに外の空気を吸い込んでから。

 

長い冬があけていく。

 

「可能性」の目線

生まれ持ったもの、というものに関しては、俺はずっと懐疑的だった。

 

 

そもそも性善説性悪説という二元論もナンセンスに感じられる。

善・悪という定義は恣意的なものである。興味があるので調べようと思ったが、学説を調べるには時間が必要なので、専門的な見地について語るには時間が足りない。

宗教は、人の作りしものである。

恣意的な掟が含まれないわけがない。

信じ合えないことに関する免罪符として性悪説があることは容易に想像できる。

生まれながらにしてよい志向性を持つことが、人を良い道に導くこともまた、簡単に考えられることだ。

 

そう単純じゃないから人間は難しい。

 

ただ、単純な時代もあったのだと想像する。時代が変わって、特にこの100年の間に世界が一気に狭くなったことにより、人の距離は凝縮し、頭の中で考えていることすらも目の前に浮かび上がってくるようになった。発信なんていうことが容易にできなかった時代には、メディアの情報をもとに人々は井戸端会議をするしかなかった。

 

それがここ10年、20年。20年前にはフォーラムに匿名で書き込む井戸端会議が発展し、匿名をいいことに人は自尊心を以て、ではなく、攻撃や他者への嘲笑をストレスのはけ口として、無邪気な攻撃性として飼いならした。15年前になって人はアカウントを所持した。コミュニティーが出来上がり、人々はインターネットを通じて出会うことも増えた。そこでも匿名性を武器にして人、バーチャルな対象をいたぶり続けている。

 

 

そこから5年たち、人は更に独立したアカウントを用い、自分の都合のいい情報を取捨選択できるようになったのが10年の話だ。

より簡単に自己発信をし、人々の考えていることを感じ取り(取ったつもりになり)、エゴを飼いならし太らせる結果に陥っているのは、逆に言うと井戸端会議をしていた30年前までと何ら変わらない状況なのではないかと思う。

 

思えば人間は技術のみ進歩していても、その本性は何も進歩をしていない。

これは日本だけに限った問題だろうか。

 

ここ20年近く外国に出たことのない自分には見当もつかない。語る権利もない。

海の向こうでプロレスと政治を同列に扱っているジジイへのヘイトは、垂れ流されたかのように太平洋を渡ってくる。だが、ジジイの支持者の情報は滅多に見られない。批判的な意見はいくらでも伝わってくる。それは、藪野郎のときも一緒だったように感じる。

 

メディアは機能していると判断していいのだ。

権力監視能力としてのメディアは、少なくとも海外の諸外国は機能していると思っている。

だけども、実際に良いニュースが流れてこないのは、国内は混沌を極めているからではないのかと想像してしまう。

 

 

疲れてくると頭が冴えてくる。

というか、良くないことに気づける自分がいる。

 

 

俺は、自殺のために人身事故を起こしてしまう人にシンパシーを感じてしまう。

 

人の気持ちを察する、というものではなく、単純に俺が優しすぎる、真面目すぎると批判されることもある。わざわざ「シンパシーを感じてしまう」などと人前で宣う俺もどうかと思うのだが、自分が死にたくなる気持ちなど、死にたくなる人間にしかわからないだろう。

死にたいから死刑になる。人を殺して咎められたい。気が病むまで追い詰められた人の思考でしかない。社会の犠牲者発生の連鎖が起こっているだけだ。

「生産性がない」という思考もひどく悲しいものだ。生産性がなければ、社会に役立つ考えでないからといって隅に追いやられ、居場所を失っていくなんて、まぼろしの「社会」に突き動かされているだけの妄想の被害者だ。

 

生きる気力を失う、なんてことはしょっちゅうあることだし、用意された社会に適応できない可能性なんかいくらでもあるのに、自尊心と誇大性に邪魔されて死んでいく人の気持をないがしろにすることなんて、できやしない。

 

 

 

金を稼ぐために生きていると、自分のしたいように、生きたいように生きている人の姿が余計に目につく。

それが「社会に迎合して生きていきたい」のか、「社会での居場所として求めている」のか、それとも「ただやりたいようにして生きている」のか、全くわからない。

いや、わかるのだ。何らかの思考が俺の脳に入ってきて、そういった推測を与えるからだ。

ただ、その人達が何を求めているのか。それが、さっぱりわからないだけである。 

これはまた別の機会で言及する。

 

 

生き方の探求が人の生死に関わってくることの可能性を、善悪の固定を、社会のため人のため、といいつつそれが自分のエゴに直結していると感じ取られる危険性を、俺は常に危機感として持って生きたほうがいいと思う。

 

頑張ることをやめて、自分を大事にするということにも真面目になったほうがいい。

 

けど、それで人を傷つけてしまっていいことではない。

 

そこのバランスを崩したくないという、想い。

 

 

長い冬があけていく。

青黒く染まっていく空に意識を引っ張られ

夜になってすべてを忘れ

朝を迎えて繰り返す。

 

そんな夜なら、あけないほうがいい。

心も冬のままでいい。