「可能性」の目線
生まれ持ったもの、というものに関しては、俺はずっと懐疑的だった。
そもそも性善説・性悪説という二元論もナンセンスに感じられる。
善・悪という定義は恣意的なものである。興味があるので調べようと思ったが、学説を調べるには時間が必要なので、専門的な見地について語るには時間が足りない。
宗教は、人の作りしものである。
恣意的な掟が含まれないわけがない。
信じ合えないことに関する免罪符として性悪説があることは容易に想像できる。
生まれながらにしてよい志向性を持つことが、人を良い道に導くこともまた、簡単に考えられることだ。
そう単純じゃないから人間は難しい。
ただ、単純な時代もあったのだと想像する。時代が変わって、特にこの100年の間に世界が一気に狭くなったことにより、人の距離は凝縮し、頭の中で考えていることすらも目の前に浮かび上がってくるようになった。発信なんていうことが容易にできなかった時代には、メディアの情報をもとに人々は井戸端会議をするしかなかった。
それがここ10年、20年。20年前にはフォーラムに匿名で書き込む井戸端会議が発展し、匿名をいいことに人は自尊心を以て、ではなく、攻撃や他者への嘲笑をストレスのはけ口として、無邪気な攻撃性として飼いならした。15年前になって人はアカウントを所持した。コミュニティーが出来上がり、人々はインターネットを通じて出会うことも増えた。そこでも匿名性を武器にして人、バーチャルな対象をいたぶり続けている。
そこから5年たち、人は更に独立したアカウントを用い、自分の都合のいい情報を取捨選択できるようになったのが10年の話だ。
より簡単に自己発信をし、人々の考えていることを感じ取り(取ったつもりになり)、エゴを飼いならし太らせる結果に陥っているのは、逆に言うと井戸端会議をしていた30年前までと何ら変わらない状況なのではないかと思う。
思えば人間は技術のみ進歩していても、その本性は何も進歩をしていない。
これは日本だけに限った問題だろうか。
ここ20年近く外国に出たことのない自分には見当もつかない。語る権利もない。
海の向こうでプロレスと政治を同列に扱っているジジイへのヘイトは、垂れ流されたかのように太平洋を渡ってくる。だが、ジジイの支持者の情報は滅多に見られない。批判的な意見はいくらでも伝わってくる。それは、藪野郎のときも一緒だったように感じる。
メディアは機能していると判断していいのだ。
権力監視能力としてのメディアは、少なくとも海外の諸外国は機能していると思っている。
だけども、実際に良いニュースが流れてこないのは、国内は混沌を極めているからではないのかと想像してしまう。
疲れてくると頭が冴えてくる。
というか、良くないことに気づける自分がいる。
俺は、自殺のために人身事故を起こしてしまう人にシンパシーを感じてしまう。
人の気持ちを察する、というものではなく、単純に俺が優しすぎる、真面目すぎると批判されることもある。わざわざ「シンパシーを感じてしまう」などと人前で宣う俺もどうかと思うのだが、自分が死にたくなる気持ちなど、死にたくなる人間にしかわからないだろう。
死にたいから死刑になる。人を殺して咎められたい。気が病むまで追い詰められた人の思考でしかない。社会の犠牲者発生の連鎖が起こっているだけだ。
「生産性がない」という思考もひどく悲しいものだ。生産性がなければ、社会に役立つ考えでないからといって隅に追いやられ、居場所を失っていくなんて、まぼろしの「社会」に突き動かされているだけの妄想の被害者だ。
生きる気力を失う、なんてことはしょっちゅうあることだし、用意された社会に適応できない可能性なんかいくらでもあるのに、自尊心と誇大性に邪魔されて死んでいく人の気持をないがしろにすることなんて、できやしない。
金を稼ぐために生きていると、自分のしたいように、生きたいように生きている人の姿が余計に目につく。
それが「社会に迎合して生きていきたい」のか、「社会での居場所として求めている」のか、それとも「ただやりたいようにして生きている」のか、全くわからない。
いや、わかるのだ。何らかの思考が俺の脳に入ってきて、そういった推測を与えるからだ。
ただ、その人達が何を求めているのか。それが、さっぱりわからないだけである。
これはまた別の機会で言及する。
生き方の探求が人の生死に関わってくることの可能性を、善悪の固定を、社会のため人のため、といいつつそれが自分のエゴに直結していると感じ取られる危険性を、俺は常に危機感として持って生きたほうがいいと思う。
頑張ることをやめて、自分を大事にするということにも真面目になったほうがいい。
けど、それで人を傷つけてしまっていいことではない。
そこのバランスを崩したくないという、想い。
長い冬があけていく。
青黒く染まっていく空に意識を引っ張られ
夜になってすべてを忘れ
朝を迎えて繰り返す。
そんな夜なら、あけないほうがいい。
心も冬のままでいい。