サーカス団、お台場で俺を童心に帰らせる -夏の魔物2018に想いを寄せて-

魔法が解けることはなく、虚脱感に苛まれる日々だ。

 

 

 

というかむしろ魔術か。

魔物にかけられた黒魔術は解けぬまま、来る日も来る日もDMBQというワードでツイッターを検索しては、昔DMBQに恋い焦がれていた連中の阿鼻叫喚を見てほくそ笑む夜を過ごしている。

主題ではないが、DMBQのライブは本当にすごかった。青春の気持ち、19の夏に感じたあのサイケデリックバンドの狂乱ではなかったが、静かに狂いつつ音の壁で殴りつけてくる新しいDMBQの在り方。はっきり言おう、大賛成だ。

 

極めつけはROVOだった。最初っから聴き慣れた曲をフルスロットルでぶっ飛ばし踊らせてくる様は、神の余裕とそのえげつなさを感じさせた。何度か山本さんがキマる瞬間を見たその刹那、俺は踊るのをやめて世界を並行に見ていたと思う。

 

 

そんなわけで、夏の魔物2018。見ていたこっちとしては「フェスとしてのクオリティ云々よりも楽しかった」と思うばかりであった。

 

あのフェス、去年は会場へのアクセス以外は最高だった。今年はステージとステージの距離がめちゃくちゃ近かったので音がかぶりまくるし、入り口にてドリンクチケットで金をとったにも関わらず、オフィシャルのドリンクを欠品させるくらいのクソ運営。挙句の果てにはぬるいビールを飲んだ直後の向井秀徳に「このフェスと同じくらい、ぬるい」と言われるくらいなのに、客をしっかりと喜ばせるという、こういうところだけは本当にすごいなと思うのだ。

 

 

語るよしもないことを語る。チラシの裏にあるのが人の思い出だとすれば、俺はそれを抱きしめて生きていきたい。

 

 

一つの想い出を語ろう。

 

 

どうしようもない思春期こじらせ真っ只中。

激しい音楽・本場海外のロックンロールこそ至高であり、日本の音楽なんかクソだと吐き捨ててメタルばかり聴いていた俺がそれに出会ったのは16の春くらいだったと思う。

あの頃買ったCDといえば、レッド・ツェッペリンのライブ盤の新作とメタリカの新譜だった気がする。そんなお年頃だが、17を過ぎた頃には俺はロキノン系(『反逆の音楽』みたいな号を読んでからレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン)にハマり、音楽のベクトルが変わりつつあった。あの頃から、というか俺は一貫してずっと左っぽい思想を抱きしめて生きている。

そんな時期のちょっと手前に、筋肉少女帯と出会った。

 

幼少期の俺にとって大槻ケンヂは「世界ふしぎ発見!」にたまに出るお兄さんだった。

 

 

そんなおじさんのエッセーを何かのタイミングで読み、グミチョコレートパインの小説を初めて手に取った頃に俺はTSUTAYAでベスト盤を借りた。『筋少の大車輪』である。入っていた曲はどれも刺激的で、どのアーティストの歌詞からも感じられなかったふざけ具合に痺れた。

ふざけてなどいなかったのかもしれないが、とにかくふざけていた。多感なガキ(だったと思う)をたぶらかすには十分な破壊力を持ってして俺の脳髄をどろろにしていった。ユーモアとはなんぞや、というところに関してはもはや俺にとってオーケンは神様のようなものであり、多分一生かかっても近づけない存在なんだということは、しっかりと自覚している。

多感なクソガキの自分に、どうしようもないほど悪影響を与えてくれたバンドが筋肉少女帯だった。

 

 

聴き始めた当時、筋肉少女帯はメンバーがバラバラであり、活動をしていなかった。

すでにこの世には無きものとなっているバンドの音楽を聴くことなど、日常茶飯事すぎてなんとも思わなかった。いろいろな新しいものを吸収しようと思っていた頃に、俺は地元の美容室に通い始めた。店主は俺に大量のCDを渡し、<洗脳>とも呼べるレベルの調教を施してくれた。そう、嬉々として。真っ先に貸してくれたのはナゴム時代の筋少空手バカボンのベスト。あとはその頃聴き始めたブランキージェットシティの、フジロックでの最後のライブ(Saturday Nightのギター交換が最高にかっこいいアレ)を録画したVHSだった。

後にデッドエンドとかガスタンクとか、そっち方面の音も聴かされてはウットリしていた時期もあった。当然ながら、スターリンINUの影響も受けていったのもこの時期だ。なんせオーケンのエッセイにも名前がよく出てきたから。その後、トーキング・ヘッズの“Remain In Light”にも出会ってしまい、俺の音楽観は更に狂っていく。ハードな音がどうとか、まるっきりどうでもよくなり、踊ることの楽しみを覚えていった。

 

筋肉少女帯。俺は、いつしか憧れの音楽として、いつか、再結成することもなく終わってしまうには悲しすぎるという想いを抱き始めた。

 

正直な話、筋少も良かったが、あの頃の俺、いや、今でも空手バカボンのベストが最高に好きである。こういうところをもってして人生が屈折していると言われる所以かもしれないが、ああいうキッチュサウンドが最高だと未だに思っている。

 

16、17で遅い音楽教育を受けた俺も、気づけば筋肉少女帯にがっつりハマり、空手バカボンをやっていた頃に近い『仏陀L』こそが最高のアルバムだと思い込んでいった。やっぱ次点は"Sister Strawberry"である。あの頃だからな。

 

時は流れ00年代の終わり、筋肉少女帯は再び活動を始めていた。

 

が、沖縄に住んでいた俺にとっては見る機会もなく、旅行の前にローチケを見ては「あ、筋少のライブ…って売り切れかよ!」なんてことがよくあったわけである。おそらく2008年頃か。筋少下北沢シェルターでのブッチャーズのライブを天秤にかけて検討するつもりだったが、当然筋少は売り切れていたわけだ。

 

季節は流れ

初めて筋肉少女帯のライブを見たのは、2016年のライジングサンロックフェス。

 

あの時…俺は完全に不完全燃焼だった。思い返して見るとワクワクはあれどキーボードねえじゃん、と、ステージを見てがっかりしたのを覚えている。「イワンのばか」と「じーさんはいい塩梅」だけはもう、こればかりはしびれてどうしようもないくらいにブチ上がったわけだったが、終わってみれば寂しさもあったと思っている。

 

俺が聴きたい曲はやはり、三柴江戸蔵のキーボードが必須だったのだ。

「サンフランシスコ」が生で聴けなければ全く意味がないと思っていたほどだった。

あのけたたましいイントロが聴けなければ、あの人の手にかかったメロディが聴けなければ、俺の気持ちは昇華できなかったのである。

 

ちなみに2008年のくるりにはその人、三柴理がいた。そのライブは、見た。「ばらの花」のピアノなんかは最高だった記憶がある。

 

 

 

俺は一昨日前、全く酒に酔うこともなかった。この夏の魔物でステージセットを見たときにハッとし、すぐ、ツイッターで「筋肉少女帯 エディ」と検索していた。

前日のライブには三柴江戸蔵がいたらしい。

 

 

俺は気持ちの昂りを抑えられぬまま、一曲目から鳴り響くキーボードのイントロで泣いた。

 

こんなに近い日本の地でお逢いするなんて

本当に嬉しい。

目の前のサーカス団は俺を一人ドキドキさせて「まだ僕はこんなところで」「きっとうまくいくわ」なんて

まだ綱渡りを続けさせようとしたのだ。

 

 

俺はその勇気を、日本印度化計画でも大釈迦でも踊るダメ人間でもなく、「高木ブー伝説」にて昇華したのだ。

 

吉祥寺に帰ってきたのは21時すぎのことだった。

目の前にいたのはサリーの女…

ヨガのポーズで俺を止めた。俺は、唐揚げ屋に入って唐揚げはなんて硬いんだー!!!!と俺は聖者として最期の言葉を叫んで悶絶した。

 

 

数十分前に目黒二郎臨休の憂き目に会い、まるで無力な俺はまるでまるで高木ブーのようじゃないか!!と叫んだことも忘れて。

 

 

夏の魔物のいたずらは、俺を本当に、童心に帰した。

 

 

この想いが末永く続くように、と、漠然と夢想しながら

いつかオーケン、エディと出会ってみたいという17の頃の気持ちを抱きしめ続けることにしたのだった。